『「編集手帳」の文章術』を読んで

読売新聞のコラム「編集手帳」を書いている方の本を読んだ。
毎日「編集手帳」を書く上で気をつけていることなどが書かれている。
その中で、「出入り禁止」の言葉たちというのがある。

「癒やし」という言葉を筆者は嫌いだという。
山折哲雄氏の文を引用している。

  「癒し」とか「癒される」という言葉からは、甘ったれた、うさん臭い匂いばかりが立ちのぼってきます。なぜでしょう。たとえば私は夕焼け空をみて感動する。(略)そんなとき、私は「夕焼け空をみて癒される」などとはいいません。なぜなら夕焼け空が私を癒すのではない。私が夕焼け空をみて感動するからです。私がその荘厳の美に打たれるからです。
 そんなとき、感動という言葉の代わりに癒しという言葉を使うと、治療台の上で施しをうける病人のような気分になってしまう。(中略)癒しという言葉が好きな人びとは、その深層心理において、患者になりたがっている人びとなのではないでしょうか。

先日、ホテイアオイを見に行ったとき、
このブログで
ちょっと癒されたひとときだった。
と書いたが、
山折氏の言葉に思い当たる節もある。
何となく心迷っているとき、自然に触れて、
つい「癒された」と表現してしまうが、
「患者になりたがっている」気分の時にそう表現してしまう。
素直に「感動した」と言い切れない。
ちょっと心のもやもや感が薄まったとき、
「癒された」と簡単に使ってしまう。
「癒されたい」と思うときは、
悩みがあったり、疲れていたりで、心に余裕のないとき。
それなのに、自然をみて簡単に感動するはずがないかも。
心に、ちょっと感動できる余裕ができただけ。
これから「癒される」という言葉を使うときは、
気をつけよう。

さらに、「絆」という言葉についても「出入り禁止」だと筆者はいう。
東日本大震災がきっかけで嫌いになったそうだ。
あちこちで使われすぎて手垢にまみれたという。
このときに、「向き合う」や「元気をもらった」も出入り禁止になったそうだ。
「絆」を使うべきでない人が使っているという。
これはどういうことか?
筆者は語る。

お寺の「拝観料」にちょっと似ています。「拝観」は本来、見せてもらう側が使う言葉であって、お寺の側が使うのはおかしい、という議論があります。「絆」も同じで、世間の差し伸べる支援の手に真心やぬくもりを感じた被災者が使う言葉でしょう。差し伸べる側が神輿に載せてかついで回る言葉ではないはずです。

確かにそう。
簡単に「絆」という言葉を使っていた。
簡単に使いすぎていた世間に気づく。
そして、3年前の3月11日の「編集手帳」が掲載されている。
この「編集手帳」には、私も感動して、
このブログに載せた。
http://09901697.at.webry.info/201203/article_8.html
が、そのときは、「絆」の持つ意味には全く気がついていなかった。
この本を読んで、今新たにその筆者の意図を知った。
うわべだけの支援は支援じゃない・・・。
そして、「絆」のところで、最後に筆者はこう書いている。

 ほんとうならば追放の憂き目をみることなく、美しいビロードで内張をした宝石箱にしまわれていい言葉でしょう。「絆」もまた、被災者の一人かもしれません。

本当はすてきな言葉のはずなのに、
手垢がつきすぎて、その意味合いが陳腐になってしまう。

いい文章を書くにはどうすればいいのか、
ヒントをもらうために読み始めた本であったが、
私の目の付け所がちょっと違うのか、
こんなところに心引きつけられた。


竹内政明著
「編集手帳」の文章術
文春新書 2013年

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